2017年 9月9日 (土)

家から30分の事務所に出勤すると、朝にも関わらず昨日からぶり返した暑気に、既に空気は生温く重たかった。
そこにいるだけで体力を奪われるような室温は、まるで目に見えて淀んでいるようだ。
シャツの首周りや脇の下はもうじっとりと湿っていて、胸の窪みを汗が気味悪く伝っていくのが分かる。
すぐにでもネクタイを外して服を脱ぎ捨てたくなる衝動を我慢して、エアコンを入れる。
緩やかな音と共に少しずつ人工の冷気が吐き出され、ようやくぼくは呼吸が出来るようになった気がした。



9時13分。



今日は一応事務所の休日になっているから、真宵ちゃんは来ないと思う。でも電気が点いていると開いていると思った人が訪ねてくるかもしれない。人通りの多い立地の気安さからか、結構今までにもそういうことが多い。ネクタイは緩められない。
顔を水でざっと洗って戻ってくると、エアコンがそこそこに効いていた。
冷蔵庫から取り出したペットボトルのコーヒーに氷を入れ、席に戻る。昨日妙に丁寧に机の上を掃除して帰ったから、書類を濡らさないように避ける手間もない。
コーヒーを適当なところに置くと、早速汗をかいたグラスから水滴が伝って机を濡らした。



携帯を手に取る。
今、履歴に表示される名前は真宵ちゃんだけだ。
昨日データを諸平野に消されてしまったので、仕事ついでにバックアップを入れようと思っていた。
PCを立ち上げる。
パスワードを打ち込み、そこでぼくはようやく腰を下ろした。
本体そのものが年代物だけあって、立ち上がりも遅い。
ククク…と小さな起動音と聞きながら、ぼくは手の中の携帯に目を落とした。



本当は仕事とプライベート用、2種類持っていた方がいいのだろうけれども、ぼくはこれしか持っていない。
この事務所に入った時に記念に機種変更し、以来ずっと使っているので今となっては随分型も古くなってしまった。
記念に買った、ということでほんの少しの感傷もあったと思う。
一人立ち出来たら新しくしようと思いながらも、ぼくには特に必要ない、新機種に追加される機能に気後れし、手に馴染んだこれを殊更変えたいとは思わなかった。





──何度も。

あの日から、携帯を手にする度に衝動的に消そうとして消せなかった番号があった。
しかし今はその番号も、この携帯から消去されている。
あれ程ぼくの中で重たかった番号が、あっさりと。

例え掛けたところで、その番号はとっくに繋がらないのだ。
そんなことはとうに分かっていた。
狂ったようにリダイヤルしても、繋がったと思った瞬間そこから聞こえるのは、電波が届かないか電源が切れている旨を伝える機械的なアナウンスだけなのだ。



《 ………──は 死を選ぶ 》



本当に死にたいのなら、そんな書き置きを残すなよ。
目の前に死体を晒してくれた方が、ずっとすっきりする。



《 ………──は 死を選ぶ 》



本当に死にたいのなら、携帯を持って行くなよ。
捨てていってくれたのなら、とっくの昔に諦められたのに。



《 ………──は 死を選ぶ 》



あいつを助ける為だけに弁護士を目指して、そしてそれは叶ったと思った。
何か見返りが欲しかった訳じゃない。
あの時あいつに信じて貰えて嬉しかった──ただ、それだけを伝えたかった。
あの時お前がぼくを信じてくれたように、ぼくもお前を信じていると。

なのに。

ぎこちない笑顔に何度か触れるうちに欲が出た。
側にいたいと思った。信じるぼくを信じて欲しいと思った。
進む道は違っても目指すものは同じだと、そう互いに感じていると信じていたかった。



裏切ったのは、お前だ。



…いや、お前は何も裏切ってなんかいない。
全部ぼくが一方的にお前に抱いていた、独り善がりな幻想だ。





いつの間にかモニターではスクリーンセーバーがゆっくりと幾何学模様を描いていて、気が付いたぼくはキーボードを叩く。
後は何も考えないように機械的に手を動かした。

ソフトを立ち上げる。
名簿を表示させ、その名前の左のボックスにチェックを入れる。
右クリックを押して《削除》を選択した。
警告音と共に、消去確認のウィンドウが表示される。
大丈夫。ぼくはもう何も感じてなんかいない。

カチリ、とクリックの軽い振動が指先に伝わった。





携帯からカードを取り出し、PCに差し込む。
データコピーを開始しながら、ぼくはコーヒーに手を伸ばした。

微妙に頭が痛い。
殴られたのがまだ響いているのかもしれない。
ちゃんと診てもらった方がいいのかな。
一応診断書も出してもらうか。
携帯にもロックをかけておくべきだった。
また盗まれたりデータを消されちゃ適わない。
そういえば暗証番号登録してたっけ?覚えていない。

ぼんやりとグラスを口に運んでうっかり上澄みだけすすってしまい、その不味さに眉が寄った。
コーヒーはいつの間にか溶けた氷で綺麗なニ層に別れていた。
表面は湿気でびっしょり濡れていて、少しでも揺らすと水滴が散りそうだ。
手を伸ばしてティッシュを数枚出し、グラスを包んだ。



カードを携帯に戻し、一通りデータをチェックする。

もう、あの名前は表示されない。

すっかり覚えてしまった、あの番号も。





──忘れろ。

──忘れよう。

──忘れなきゃ。








《 検事・御剣 怜侍 は 死を選ぶ 》








あのまま記憶を失っていられたら良かったのに。










膝の上に、拭い切れなかった水滴がぽたりと落ちた。

 

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