人形は愛を詠う

最初から腹話術に興味があったとか、「サーカスに入りたかった」なんて青臭い夢があったわけじゃなかった。
才能があった? 
とんでもない。
ボクは腹話術師としてもてんでダメなほうだった。
それでもボクがやって多少モノになったものなんて、オヤジに教えられた腹話術しかなかった。

大勢の観客の前に立たなきゃいけない腹話術師になんて、正直最初はなりたくなかった。
でも、一人じゃドモるばかりのボクには就活さえロクに出来やしなかった。
人を前にすると、まともに喋れなくなる。
緊張で粘ついた口が、にちゃにちゃと不快な音を立てる。
自分の息を異様に生臭く感じる。
そうなるとますます自分がみっともなくて恥ずかしくて、ガチガチになったボクは声すら出せなくなった。
だからボクは、腹話術師だったオヤジのコネで小さな小さなサーカスに入った。

腹話術人形の相棒──リロくんがいてくれれば、ボクは人前でも少しだけ上手く振る舞うことが出来た。
リロくんは美しい声で観客を酔わせるテノール歌手。
リロくんはダメなボクとは違って自信に溢れていて、積極的で、物怖じせずに何にでもチャレンジする。
キザなセリフと即興の歌で、お客のカワイイお嬢さんを口説いたりもする。下手な手品で小さな花を出してプレゼントすると、皆喜んでくれるんだ。
だからボクはこの小さな小さなサーカスで、リロくんと一緒に腹話術を続けていた。

小さな小さなサーカスは、しばらくすると少しずつ大きくなっていった。
お客さんは以前より増えたけれど、リロくんと一緒ならどんな舞台でも大丈夫だった。
ボクが入った頃にはほんの小さな女の子だった団長の娘さんも少しずつ大きくなって、なんというか…その、綺麗になった。
学校にもいたっけかな。ああいう子。
とびきり綺麗で、キラキラしてて。そこにいるだけで華があって、クラスの中心で、ボクとは全然違う世界にいるような子。
そういう子の視界にも入らなかったようなボクは、それでもその子の顔がちょっとでもこっちを向きそうになると、恥ずかしくて目を反らしてたっけ。
一回り以上年下だったこともあって、ミリカはボクにとって何だか遠い存在で。同じ空間にいるのさえ少し照れくさくてちょっと苦手で──だから同じサーカスにいて、リロくんが付いていてくれても、こっちから話し掛けたりするなんて、とても考えられなかった。

あの時までは。




















昔の無声映画を見ているようだった。
しばらく何の音も聞こえなかった。

レオンの顎に頭を乗せて緊張に強ばっていたバットの顔が、ミリカを見て得意そうにほころんだ──その表情が次の瞬間、毛深い鼻面の下に隠れていた。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。レオンがその口を閉じて、牙でがっちりバットの首を挟んだのだ。
モノクロームの風景の中、バットの首から赤い噴水が吹き出した。
一番最初に動いたのはアクロだった。立ちすくむ仲間達を突き飛ばし、何かを叫びながらレオンに向かい走っていく。
獣の匂いに麻痺していた鼻に、鉄臭さとアンモニア臭が突き刺さる。ボクはリロくんを抱き締め口を押さえ、その場に伏せた。
本能はここから逃げるよう訴えているのに、脚に力が入らず動こうとしてくれない。きつく目を閉じ、胃の奥から込み上げてきた苦い酸味を生理的に吐き出した。
恐ろしい光景を見たくなくて目を閉じると、馬鹿になっていた耳に音が少しずつ蘇ってきて、ボクは歯を食いしばり体を丸めた。

血に興奮した獣の声。
スタッフ達の悲鳴。
雄叫びのような、アクロの長い絶叫。

やがて1発の軽い銃声が響いた。
何か指示を飛ばす低い怒声と興奮した啜り泣き。そして随分経ってから、ようやく遠くから近付くサイレンの音を聞いたような気がする。










ふと気が付くと、ボクはテントの入口にぼんやり立っていた。
昼過ぎの高い青空が、頭上に広がっていた。あの凄惨な光景が嘘だったかのように。しかし嘘ではない証拠に、生温く蒸れた血の匂いが辺り一面に漂っていた。
恐る恐る振り向くと、テントの中の様子は一転してた。
搬入口から入ったのだろう、1台の救急車。猛獣達の檻は片付けられ、夕方からのリハーサルの為に出していた道具も隅に寄せられていた。
何人かがショックで座り込んでいて、救急隊員や手の空いたスタッフがその介抱をしていた。

そうだ──2人は?あの兄弟は?

バットとアクロの姿はなかった。レオンがいたあたりには黒ずみ始めた大きな血溜まりがあり、大勢の人が踏んだ足跡で床は生臭い斑になっていた。
ボクも何か手伝わなきゃと思ったけれど、脚が竦んで中に入ることが出来なかった。
じわり、と脇の下に嫌な汗がにじんだ。リロくんの背に入れた右手もヌルついている。
口の中はカラカラに乾いた上、胃液の味が後を引いて気持ちが悪い。
冷たい水が欲しくて、ボクはその場をフラフラ離れた。










裏のトイレで口をすすぎ顔を洗うと、幾分気分もマシになってきた。
出口のベンチに腰掛け息をつくと、「大変なことが起きた」ということがようやく実感を伴ってやって来た。
あの兄弟はどうなったのだろう? あれだけ血が出て無事、ということはないだろう。
何よりバットがレオンに顔を噛まれる瞬間を、ボクは見ていた。
レオンの牙がバットの首の付け根に食い込んで…──
そこまで思い出し、ボクは寒気を感じてブルッ…と震えた。

このサーカスはこれからどうなるんだろう?
ボクはこれからどうなってしまうんだろう?

──そうだ、今は大変なんだ。ボクも早く戻って団長から指示を仰がなきゃいけない。
ベンチから飛び起き、へっぴり腰で歩き出そうとして…
そしてボクは、さっきから聞こえていたはずの小さな啜り泣きにようやく気付いた。



トイレを挟んだ向こう側のベンチに、ミリカがいた。



「……ォ… …う」

驚いて出せたのは、喉が詰まったような妙なうめき声だけだった。
ボクは彼女が笑っているところしか知らなかった。
でも、そこにいたのはボクがまるで知らないミリカだった。
か細く途切れる嗚咽に合わせ、赤い舞台衣装から覗いた白い肩が頼り無さげに揺れている。
ボクは彼女がボクより随分小さく華奢な女の子であることに、今更ながら気が付いた。

ボクの気配に気付いたのか、ミリカはゆっくり顔を上げた。
ばくり、と心臓が大きく跳ねる。
ミリカの目と鼻は真っ赤で、ボクはまるでウサギみたいだと思った。

しばらく無言で見詰め合う。黙ってしゃくり上げながら、彼女はボクの名前を思い出せない様子だった。
それも仕方がない。ボクと彼女はあまり接点がなかったし、ボクの腹話術は大きな演目の前座の一つにすぎなかったのだから。

いつものボクだったら、混乱して後退り、その場から逃げ出していただろう。
でも、その時は違った。

『──やぁ!カワイ子ちゃん、こんなところでどうしたんだい?!』

ボクは精一杯、声が震えないよう気を付けながらリロくんを操った。

「…………キミ… …だぁれ……?」
『オレさまはリロくん!このサーカスが世界に誇る、テノール歌手さ!! 後ろのコイツはシケた相棒のベン!こらベン、カワイ子ちゃんにご挨拶しろよ!』
「う…うん、は、はじめまして……ベン、です…」
『ったく、いつもハッキリしないヤツだなコノヤロー!! あ、悪ィなカワイ子ちゃん。コイツのことは放っといて、オレと楽しくおしゃべりしようぜ!』
「うぅ… 痛いよリロくん…」
一度リロくんに喋り出させると、いつもの舞台を思い出して度胸が据わってきた。
お客さんはこの子。この子に笑ってもらうんだ。
突然目の前で始まった寸劇に、ミリカは涙がたまった目を丸くした。
「…リロ…くん?」
『そう!カワイ子ちゃんは猛獣使いのミリカ、っていうんだろ?このシケたサーカスにもとびっきりイカしたマドンナがいるなーって前から気になってたんだよ!これからはヨロシクな!!』
いつもならここで花を出すのだけれども、残念ながら手品の仕込みをしていなかったから、ボクはリロくんの右手を差し出した。
ミリカはリロくんと握手して、そして鼻をすすりながらようやく少しだけ笑ってくれた。
『ところでミリカはどうしたんだい?こんなところで』
カワイ子ちゃんが泣いてるなんて似合わないぜ。──そう続けようとして、ボクはギョっとして声を飲み込んだ。
泣き止んだばかりのミリカの目尻にじわじわと涙がふくらみ、噛み締めて赤く色付いた唇がギュっと歪む。
しまった失敗した、ここはどういう言葉を選べば良かったんだろう。オロオロと次の出方を思案しているボクの耳に、ミリカの小さな小さな声が届いた。

「………ち…………」

『エ?』

「……血が…… 血… いっぱい……
     あれ…ミ……… …の…… せいな… の……」

「…──え?」

「…リカ…が… あの…   …を… あげ… から……
   バッ… …が………

     …めんなさ…… …!」


リロくんを操ることも忘れ、ボクは呆然とミリカの嗚咽を聞いていた。


──そりゃあ、いくらミリカが大切に育てられて世俗離れしていたといっても、生まれてから一度も怪我をしたことがない、血を流したことがないなんてことはないだろう。
誰かが血を流せば、自分の経験でその怪我がどれほど痛いかは分かる。
ミリカはバットの傷がどれほど酷いものなのか、ちゃんと分かっていた。そしてその傷を負わせたのが、自分の友達であるレオンだったことも。

ミリカは責任を感じているんだ。
あの事故が起きたのは、レオンを止められなかった自分のせいなのだと。

臆病なボクには、今ミリカが感じているだろう恐怖やいたたまれなさが、まるで自分のことのように感じられた。



──キミが気にすることはなくていいんだ、ミリカ。

あれはミリカのせいじゃない。

事故だ。

事故だったんだ。

ライオンが人に噛み付くだなんて、そんなの事故でしかないだろう…?




今、この子を慰められるのはボクなんだ。頭がカーっとなった。リロくんもまるでボクの血が流れ込んだかのように熱弁を振るった。

ミリカは悪くない。
絶対に悪くない。

『──こんなとびっきりのマドンナがそんな悲しそうに泣いてるなんて見ちゃいらんないぜ!
オレはもう今スグにゴロゴロのでっかいダイヤの指輪と花束抱えてプロポーズしたいってくらいってのによォ!!』

勢いでそんな言葉までリロくんから飛び出した。

リロくんの早口に圧されたようにきょとんとしていたミリカは、しばらくして頬を緩めてふわっと笑ってくれた。

「…フフっ…。ミリカ、男の子にプロポーズされたの、初めて」
「…っ 『オレが初めての求婚相手なんて嬉しいねぇ!じゃあ今から予約させておいてくれよ!!今度は絶対ちゃんとでっかいダイヤの指輪を持ってプロポーズするからさ!!』
「フフッ…楽しみにしているね、リロくん」




鼻を赤くして、しゃくり上げながらもミリカは笑ってくれて。
ボクはなんてことを約束してしまったんだと内心焦りながら、今までになかった充足感を覚えていた。

──だってボクの腹話術が。
冴えないボクの冴えない腹話術がこんなに人の心を揺らせるなんて、やっぱり嬉しいじゃないか。









しばらくしてミリカを探していた団長と警官がやってきて、ミリカはリロくんに手を振りながらテントの方へと戻っていった。

これから彼女はいっぱい辛い思いをするのだろう。
それならば。







ボクはリロくんをぎゅっ…と抱きしめた。







ホンキで人間にプロポーズする人形が、この先少しでも彼女を笑顔にできるのなら。






 

Back