Kleinsche Flasche・5

2019年 1月某日某時刻 天流斎 エリスのアトリエ




「──オレはアンタが許せねぇ」

アトリエの簡素なソファから身を乗り出すようにして、男性は低く押し殺した声でそうおっしゃいました。

「勝手に行方を眩まして、結果的に千尋を死なせたのはアンタだ。
少しは娘達に情が残っているってんなら、千尋の妹──真宵を守るのはアンタの義務であり、罪滅ぼしってもんじゃねえのか?
天流斎 エリス…いや、綾里 舞子さんよぉ…!」

目の前の男性からは途方もない哀しみと怒り、そしてわたくしへの憎しみが吹き出しているようでした。

ああ、あの子は──千尋はこの男性(ひと)に愛されていたのか。
こんなにも深く。

わたくしがあの子を最後に見たのは17年前。中学入学を控え、少女から大人へと美しく育ち始めた頃でした。
わたくしの知らぬ間にあの子は健やかに成長し、人を助ける立派な仕事に就き、恋をし、そして再び会うこともなくこの世を去ってしまいました。
その現実を改めて感じ、わたくしは静かに震える瞼を閉じました。









《DL6号事件》を機に、わたくしは娘達にも黙って里を降りました。
倉院の霊媒は肉体と精神全てを霊に預ける為、霊媒している間は自らに宿った霊がどのようなことをし、どのようなことを話すのか、全く知ることは出来ません。 わたくしが御剣さまのお写真を拠り所に霊媒を行った時もそうでした。

後日、御剣さまが告発された犯人が無罪になったとのことで、わたくしの霊媒は“インチキ”とされ、警視庁より詐欺容疑をかけられることになりました。
わたくしは驚きました。
御剣さまの告発が間違っていた?それとも御剣さまは嘘をおっしゃったのだろうか?何の為に?
警察の方に御剣さまの霊が──御剣さまを霊媒したわたくしが何を語ったのか聞いてみても、「それはお前自身が知っていることだろう」と胡乱な目で見られるだけでした。
わたくしは御剣さまの霊から直接お話を伺う為、身を清め、御剣さまに呼びかけました。
しかし、御剣さまの霊は応えて下さいませんでした。
冥界のより深き(くら)いところ──常世へと、御剣さまの霊は既に旅立ってしまわれていました。
全てを黙したまま。




警察の方は何も教えて下さらないので、わたくしは自分で《DL6号事件》を調べました。マスコミも大きく扱った事件ですから、それ程難しいことではありませんでした。
まず気になったのはあの事件が起きた時、現場となったエレベーターの中には御剣さま以外にもう二人──御剣さまが犯人として告発した方と、そして御剣さまの息子さんがいらっしゃったということでした。

御剣さまの息子さん、その子には覚えがありました。
御剣さまの霊媒を行う際、彼は《修験の間》でじっと正座し、白い顔で何かに耐えるように震える唇を噛んでいました。
その様子が痛々しく具合が悪そうに見えたので、《対面の間》に入ろうとしていたわたくしは娘達と外で遊んで来たら、と話し掛けたものでした。しかしその子は大きく首を振り、いっそう固く小さくなり、縫い付けられたようにその場から動こうとはしませんでした。

今思えばあの子は何か知っていた、そして御剣さまはそれを隠す為に嘘を言い、真実を伏せたまま常世に行かれたのではないか。そう思いました。
しかしそれは恐ろしい考えでした。
まさか、あの子が御剣さまを…。

その考えが恐ろしく、わたくしはまた何度も御剣さまに呼び掛けました。この不安を拭って欲しい、真実を聞かせて欲しい、と。
しかし、常世の御剣さまと語るには、わたくしはあまりにも未熟でした。




いつの間にか、わたくしへの詐欺容疑は取り下げられていました。
霊媒捜査の件がどこからかマスコミに流れ、警察は大きく信用を失うことになったのです。
この状況でわたくしを訴えることは恥の上塗りになる──告訴の取り下げは、そう考えてのことだったのかもしれません。

そして倉院流霊媒道とわたくし自身もまた、世間からの嘲笑を受けることとなりました。

静かだった里は騒然としました。連日マスコミや観光客が訪れ、霊媒師達に興味本意で霊媒を依頼し、聖山にゴミを捨て、宝具に無遠慮に触れました。
それでも里の者達はそれらの暴挙にじっと耐えてくれました。今だけ我慢すれば、きっと世間はすぐにこの件を忘れるだろうと。
しかし里の霊媒師達の魂の座所である“倉院の岩座”が酔客の小便で汚された時、里の怒りはわたくしへと向けられました。
全ての原因が御剣 信の霊媒にあるのなら、もう一度御剣 信を呼び出して真相を聞けばいい。家元ならばそれが出来るはずだ、と。

御剣さまを呼ぶことが叶わず焦るわたくしの味方になってくれたのは、キミ子お姉様でした。
お姉様はわたくしに、もう一度霊行道に出て霊力を高めてきなさい、家元として相応しい力を付け、そして御剣さまから真相を聞き出すのです──そうおっしゃいました。
あなたならもっと素晴らしい霊媒師になって戻って来れるでしょう、その間、千尋と真宵は自分の娘達と思い立派に育てる、と。
お姉様がそう申し出て下さったことに、わたくしは胸を打たれました。
お姉様の双子の娘達は、お義兄様が引き取り里を降りてしまいました。わたくしが未熟だった為に起きたこの騒動は、お姉様の家庭まで壊してしまったのです。
わたくしの夫は、真宵が生まれてすぐ病で亡くなっておりました。だからこそ、せめて片親だけでも千尋の中学入学を見届けてから里を出たいと望まずにはいられませんでした。しかし子供達を取り上げられたお姉様に対し、そんな我侭はとても言い出せませんでした。

わたくしは各地の霊行道場を巡る為、身分を隠し、娘達にも黙ってひっそりと里を降りました。




霊行道の瞑想の間、わたくしは御剣さまのことを考えていました。

常世の御剣さまから真実を聞いて、今更何になるだろう?
もしわたくしの恐ろしい考えが当たっていたとしたら、あの子…息子さんはどういう人生を送ることになるのだろうか。
もしわたくしの娘達があの息子さんと同じ立場に立ってしまったら?わたくしも御剣さまと同じようなことをしないとは言い切れないのではないだろうか。
御剣さまが常世へと持って行きたかった秘密を暴く権利が、こんなわたくしにあるのだろうか。

迷う程にあの日見た息子さんの姿が思い出され、娘達の姿が重なり
──そしてわたくしは里に帰れなくなったのです。









全てはわたくし自身の心の弱さが招いたこと。
わたくしには御剣さまと語らう資格がない、里で待っているお姉様と娘達に合わせる顔がないと、わたくしは息をひそめるようにして生きてきました。
千尋が殺され、そして真宵にその殺害容疑が掛かった時でさえも、弱いわたくしは逃げてしまいました。
今更出て行っても、真宵を尚のこと苦しめるだけではないか?…いいえ、わたくしは自分にそう言い訳をして、現実を突き付けられる恐れから逃れようとしていただけでした。
千尋の死は、わたくしが黙って里を降りたことに起因していました。
もし真宵の口からそのことを聞き、真宵から「お前のせいだ」と言われたら。「今更何で出て来た」と言われたら。
真宵の口から「お前なんか母親じゃない」と言われたら──…。

ずるい女。
保身にだけ長けた女。
わたくしはもう娘達の母親にはなれない。戻れない。

千尋が死んだ翌年、真宵は再び事件に巻き込まれました。
しかしわたくしは、再びあの娘に手を伸ばす機会を自らの迷いで断ってしまいました。
今度の事件はキミ子お姉様が画策されたこと。…信頼し娘達を託したはずのお姉様が真宵を疎んじていた事実に、わたくしは混乱しました。
信じられない。信じたくない。
ずるずると悩むうちに時間は流れ、幸いにも真宵の容疑は弁護士の方のご尽力によって晴れることになりました。

その弁護士は千尋の事件の時にも真宵を救って下さった方で、千尋が弁護士として得た唯一の部下でもありました。
千尋のことがあったからこそ、その方は精一杯真宵を守って下さったのでしょう。
…死んで尚、千尋は妹の真宵を守り続けていました。
なのに二人の母親であるわたくしは一体この十数年間、何をして来たのだろう?

再び現実と向かい合う勇気を持つには歳月は経ちすぎていて──わたくしは自らのその迷いを物語として描き上げました。




『まほうのびん』──それがわたくしの描いた物語の題名。
お母さんと再会する為に魔法使いを目指す姉妹は、ある日魔法使いの先生のお家に伝わる大事な魔法の瓶を割ってしまいます。
その瓶の中には大昔の大魔法使いが封じ込められていたのです。
二人は慌ててその瓶を元に戻そうとしますが時既に遅く、大魔法使い自身にも押さえきれない巨大な力が世界を闇に変えてしまいます。
二人は旅に出ます。
世界の闇を払う方法を探す為に。
そして大魔法使いの力を借りて、お母さんと会う為に。




その頃わたくしは糊口を凌ぐ為、子供達と接する仕事に就いていました。わたくしが作った『まほうのびん』の紙芝居は子供達に人気で、子供達からその親へ、その知人へと話は伝わり、そして出版社の方から絵本にしてみないかとのお話を頂くことになりました。
わたくしは最初驚き、そして悩みました。
もう二度と世間に名を出すようなことはしまいと、この十数年間そう自分に言い聞かせて来ましたから。
しかし悩んだ末、わたくしはそのお話を受けることを決意しました。

わたくしが描いた『まほうのびん』の絵本を、いつか真宵が手にすることがあるかもしれない。
そして真宵が、この物語から何かを感じ取ってくれたのなら。


──見習い魔法使いの姉妹は、千尋と真宵。
そして魔法の瓶は、幼い二人がふざけて割ってしまった倉院のツボ。
世界を覆い隠す闇は、綾里の血を引くが故に降り掛かる不幸。
二人は旅の間にどんな困難が起きようとも決して諦めず、互いを信じ、行く先を切り拓きます。
結局お母さんと会うことは叶わないのですが、それでも二人はその強い絆により信頼出来る仲間達を得、幸福を手に入れるのです。


どうか、どうか幸せに──真宵。
それだけを娘に伝えたくて、わたくしは絵本作家“天流斎 エリス”になりました。









絵本作家として賞を取ってからは、執筆活動に加え雑誌の会見等もあり、忙しい日々が続きました。
それまで細々と生計を立てていたのがいつの間にかまとまった財が入り、編集の方のご助言もあって、わたくしはそれまでお借りしていたアパートを引っ越して小さなアトリエを構えることとなりました。

それからすぐのことでした。神乃木さまがわたくしを訪ねて来られたのは。


お若く見えるのに真っ白な髪と、顔半分を覆う大きなゴーグル──異相の神乃木さまからは、綾里の者がよく知る匂い…“死”の気配が漂っていました。
冥界を覗いた者の気配が。

──神乃木さまの魂は、半ば冥界に引き寄せられていました。それでも神乃木さまは、強靭な意思で留まっていらっしゃいました。この方の愛した千尋、その妹である真宵を守る為に。

その強さに、わたくしは打たれました。
長い年月の中、ただ「どうしようもない」「仕方がない」という諦めの言葉を繰り返し、そして目を反らし逃げるだけだったわたくしは、なんと惨めで愚かな存在だったのだろう。
里を出てからのわたくしは、“生きて”さえおりませんでした。
ただ停滞し、そこにあるだけの存在。
何かを成す気力もなく、大事なものが傷付けられているというのに、それを守ろうという意志もなくただ眺めているだけの──魂のない存在。

わたくしは娘達を愛しておりました。掛替えのない、わたくしの娘達。
それなのに、わたくしは、わたくしは…。

胸に置いた手に鼓動が伝わり、わたくしは初めて自分の心臓が動く音を聞いたような気がしました。




──わたくしはまだ、生きている。
命があるのならば、わたくしは娘達の為にするべきことがある。
まだ出来ることがある。
わたくしは、わたくしは、わたくしは──。









「………………神乃木さま」

神乃木さまとの間に長い長い沈黙が訪れ──そしてアトリエに冬の夕暗がりが降り始めた頃。

わたくしはようやく顔を上げました。




「────わたくしに、どうか…
                どうかお力をお貸し下さい」




神乃木さまは、じっと黙ってわたくしの目を見ていらっしゃいました。

神乃木さまのゴーグルが薄闇の中、わたくしたちの頬を赤く照らしていました。























2019年 2月7日(木) [6:45] 吾童山 奥の院




遠く微かに聞こえる吾童川の轟きが、いっそう山の静謐を深めます。
わたくしはもう一度、大きく息を吸い込みました。
まだ陽が昇る前で山々は黒く、しかし空は徐々に闇の色から暁の色へと表情を変えてゆきます。
これから昇る朝陽が、おそらくわたくしが最後に目にする太陽になるのでしょう。
わたくしは強く杖を握り締めました。




神乃木さまとお会いした後、わたくしはかつての縁を頼り、この杖に刀身を隠すことをある方にお願いしました。
それはかつて倉院の神器の手入れをお願いしていた方でした。あの方の打たれる金器には、魔を払う力がありました。
だからこそ、わたくしはあの方に頼んだのです。
これから起こる禍々しいモノから、必ずや真宵を守れるように。




綾里の女にとって、死は生よりも近しいもの。
しかし自らの“死”が近付くにつれ、どうしようもない怯えがわたくしの中に生まれます。

──美柳 ちなみ。

貴女が里にいた幼い頃の姿を、わたくしはよく覚えています。
信頼し、尊敬もしていたキミ子お姉様の娘。
わたくしの姪。千尋と真宵の従姉妹。あやめさんの姉。

幾つもの命を奪い利用しようとした貴女にとっても、近付く我が身の死はさぞ恐ろしかったことでしょう。
死刑台へと向かう足は竦み、どんなに胸が震えたことでしょう。
最期の瞬間、誰か大切な方のお顔がよぎったかもしれません。

それでも。

それでも貴女がわたくしの真宵を害そうとするのであれば。




「──わたくしは、貴女をもう一度、殺しましょう」




わたくしと共に。
…声に出した呟きは、川から吹き昇る風に掻き消されました。









山々を茜色に染めながら、最後の太陽が昇り始めます。
わたくしは胸元に忍ばせた娘達の写真に手を添えました。




千尋。
あなたの強さをわたくしに下さい。

真宵。
あなたを守る力をわたくしに下さい。


…あなた。
これからお側に逝くわたくしに、どうか勇気を下さい。









もう間もなく、神乃木さまが到着される時刻です。




 
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